翠琉は、辛うじて無事な左手で数珠を受け取ると、間を置かずに呪を詠唱し始めた。
「天の風琴が奏で流れ落つるその旋律、凄惨にして蒼古なる雷!」
―ズアアァァァ‥‥ドオォォォン‥‥‥
いきなりの翠琉の攻撃に、周はただ茫然と立ち尽くす。その攻撃が周を通り越して背後に向かって放たれたものだと理解するのに、2,3秒掛かった。
はっと我に返り、翠琉へと改めて焦点を定めて周は声を失ってしまった。
己の手に刺さったままの錫杖を強く握る翠琉。痛みすら忘れてしまったかのように、ただただ強く握り締める。隠し切れない憤りは殺気となって溢れ出していた。
「‥‥梵天‥‥」
見えぬ瞳は、捉えられるはずのないその姿をまるでしっかりと映しているかのように射抜く。腹の底からから搾り出すようなその翠琉の声に、周は弾かれた様に翠琉の視線を追う。その先にいたものは‥‥
「真耶‥兄さま‥‥?」
周は、今度こそ完全に言葉を失ってしまい、力が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
髪、瞳の色は違えど、誰がその面影を忘れられようか‥‥誰が、その容姿を見間違えようか‥‥
深紅の瞳に銀灰の髪をしたそれは、残酷なまでに故人と寸分違わぬ笑みを浮かべていた。その麗人は静かに周の前へ降り立つ。
「真耶兄さま‥‥な‥‥なん‥‥で‥‥?」
やっとのことで声になったが、余りに突然すぎる出来事に周はその場に囚われた様に身じろぎ一つ出来ない。そんな周を庇う様に翠琉は梵天と対峙する。そして、まだ放心状態でうわ言のように呟いている周にはっきりと告げた。
「周、違う‥‥こいつは真耶じゃない‥‥梵天だ‥‥こいつが、真耶の身体を奪った‥‥」
「久方振りよの‥‥会いたかったぞ?おやおや、その様子だとまだ天定は見つかっておらぬとみえる‥‥衰弱が進んでおるではないか?」
多分に揶揄を含んだその言い様に、翠琉は自分の頭にカッと血が上るのを感じた。
「周!」
言うなり、自らの左に深く突き刺さった錫杖を何の躊躇もなく一気に引き抜くと、周へと投げ返した。それを周は反射的に受け取る。
「戦えるな?‥‥後ろは任せた。」
その翠琉の言葉にはっとして見渡せば、いつの間に現れたのか‥‥無数の異形の者たちが庭を占拠している。
「夜でもないのに‥‥何故‥‥」
周が呆然と呟くのに、白銀が答える。
<主に‥‥梵天の波動に引き寄せられているのだろうな‥‥>
「そんなっ‥‥」
「なあに狼狽えてんだよ!後ろ‥‥任されたんだろ?」
由貴は言いながら笑顔で周の背中を叩く。
「‥‥え‥‥?」
「任されたならさ、応えるしかないんじゃないの?」
その言葉にはっとする。
望んだのはそう、自分ではなかったのか?
声が届かない焦燥感に、欺瞞に隠された真実へのもどかしさにこの半年の間苛まれて来た。朽ち果てていく翠琉をただ見ることしか出来なかった‥‥否、“出来なかった”のではなく、逃げていた。
“逃げる”ことで己を擁護しようとした自分。どんな偽善を並べても、真実に適うはずがない。
だから、心のどこかで朽ち果てていく翠琉を見て安堵していたのかもしれない‥‥そこから動けないのは、自分だけではない‥‥真耶の死によって時間が止まってしまったのは、自分だけではないのだと‥‥‥
矛盾だらけの自分の心‥‥噛み合わない感情を持て余していた、そんな時だった。翠琉逃亡の知らせを受けたのは。
独り、そこに取り残されてしまった。そんなどうしようもない孤独感が周を襲った。そしてその形容し難い寂寥を、不条理な怒りに摩り替えた。
『罪人を逃しては、神羅の名汚しだ』
古参の者たちは真実には目もくれずに、只目先にある己らの汚点を隠すことに必死になった。
長い時をその中で過ごした周もまた、その黒く渦巻く感情に流されてしまっていた。
『庇守である周‥‥お前にこの一件、任せよう‥‥』
だからだろう、その申し出に一も二もなく頷いた。
旅立ちの前夜、周は神羅一族の御大である祖父に呼び出された。
『真実を確かめて来なさい。怒りに身を任せてはならぬ。』
その言葉の真意を、量りかねた。何故罪人を庇うのかと、腹ただしくさえあった。しかし‥‥
―何て情けないんだろう‥‥
自分の愚かさに、思わず苦笑が漏れる。
「おい?」
大丈夫かね、この人‥‥神妙な顔して物思いに耽ってたと思ったら、いきなり今度は笑い出したよ‥‥
「もしもーし‥‥」
「判ってるわよ!」
うを!怒鳴られてしまった‥‥
やっと、自分の本心が判った‥‥
話して欲しかった。
隣に立ちたかった。
でも、それが叶わない無力な自分。
現実から目を逸らした愚かな自分。
「そんな私に‥‥背中を任せてくれた‥‥」
なら、応えなければならない。周は己に言い聞かせながら、錫杖を構える。
『真実を確かめて来なさい。怒りに身を任せてはならぬ。』
その、祖父の言葉に今は素直に頷くことが出来た。
真実を受け止めて‥‥そして其の先は‥‥
「天の風琴が奏で流れ落つるその旋律、凄惨にして蒼古なる雷!」
周の詠唱が終わると同時に、異形の者たちは消え失せた。しかし、次から次に沸いてくるそれは、きりがないようにさえ思える。
それを見据えると、周は錫杖を構える。と、その周の隣に駆けてきた由貴の手に握られているものを見て、周は顔の筋肉が引きつるのを感じた。